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市民の生活を美しく描き続けた小津安二郎

みなさん、こんにちは。

クラウドファンディングのプロジェクトを紹介するインベストです。

さて、今回は一風変わって『名画の世界へようこそ』風の記事を執筆いたします。

 

 前回は、日本が誇る映画の巨匠、『小津安二郎』氏の過去の名作をデジタルリマスター化して後世に残そう、というプロジェクトをご紹介しました。

readyfor.jp

www.az-press.com

 その際に、改めて自分自身でも映画を見直したのですが・・・。

 

すごく良かった。

 

久々に名画を見たなー、て充実感がありましたので、改めて小津安二郎氏の生涯と足跡を偲びながら、みなさんに各作品を紹介できれば、と思い今回の記事を執筆しました。

お付き合いいただければ幸いです。

小津安二郎の生涯その1 商家に生まれ映画を志す

 まずは、小津安二郎の生涯から。

1903年(明治36年)に、伊勢商人の流れを組む商家に生まれます。

幼い頃から絵を描いたり、当時では希少な海外製カメラを使いこなすなど、芸術面において才能の片鱗を見せていました。

しかし、いずれ商家を背負って立つ身です。

両親の願いもあって、神戸にある商業高等学校(現在の大学)を受験するも落第。翌年には教員を目指して師範学校を受験するも、こちらも落第していました。

まぁ、この頃に映画館へ頻繁に通っていたようです。

さすがにいつまでも受験していられない、という事で、ツテを頼って小学校の代用教員に就きましたが、映画への情熱を忘れられず、僅か一年で退職。

両親の反対を押し切り、1923年(大正12年)に親類のつてで現在の『松竹』に撮影助手として入社しました。

ここで先人たちの下で撮影ノウハウを学び、1927年(大正12年)には時代劇部の監督に昇進を果たしました。

小津安二郎の生涯その2 安二郎と戦争

松竹の撮影所へ入所した翌年の1924年(大正13年)に、徴兵制度によって安二郎は一年間、兵役に従事しています。一年後に除隊し、再び映画製作に情熱を傾けますが、監督昇進後に予備役にて再び召集されてしまいました。

当時、安二郎は初監督作品にあたる『懺悔の刃』を製作中であり、完成直前まで漕ぎ着けた所で無念の召集。完成を他の監督に託して、軍隊へ入隊しました。

軍隊から再び復帰後、安二郎は驚異的なペースで映画製作を続けます。

A Couple on the Move 1928.jpeg

『引越し夫婦』1928年公開 引越しを繰り返す夫婦を描く短編喜劇

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E8%B6%8A%E3%81%97%E5%A4%AB%E5%A9%A6

Treasure Mountain 1929.gif

『宝の山』1929年公開 恋人がありながら芸者に熱を上げる青年の姿を描く

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E3%81%AE%E5%B1%B1

1928年から1930年の3年間の間で、安二郎は総数18本もの映画を世に送り出しました。

しかし翌年の1931年(昭和6年)になると、世界恐慌の影響で世の中の映画製作そのものが下火になってしまいました。そのため安二郎の製作も3本に留まっています。

製作本数こそ下降しましたが、公開した映画の評判はよく、世間の批評家からも『小市民映画の第一人者』としての評価を受け、一流監督への仲間入りを果たします。

国内での名声を不動の物とし、安二郎は更に映画製作を続けていきますが、1937年(昭和12年)に支那事変より端を発する日中戦争が勃発。

安二郎も招集を受け、中国戦線へと身を投じます。

2年弱を中国各地で転戦し、1939年(昭和14年)には除隊しました。

さっそく映画製作へ復帰しましたが、国内では映画を公開前に事前検閲する『映画法』が成立してしまいました。安二郎は自身の戦争体験を基にした映画製作を企画しましたが、事前検閲を通過できず製作を断念しました。

その後は軍の広報部映画班に召集され、シンガポールで国策映画の撮影に従事しますが、そこで終戦を迎えます。

現地での抑留生活を経て、1946年(昭和21年)に日本へ帰国しました。

小津安二郎の生涯その3 失意の果てから再度の映画製作へ

帰国後は映画製作から離れ、実母と二人暮らしをしていた安二郎ですが、松竹からの催促にようやく重い腰をあげます。

2本ほど製作したあと、当時銀幕のトップスターともいえる存在だった女優の原節子、後に小津映画には欠かせない存在と言われる俳優の笠智衆(りゅうちしゅう)を迎えて、1949年(昭和24年)『晩春』を公開しました。

晩春 デジタル修復版 [Blu-ray]

この『晩春』こそが、小津安二郎のみが持つ独特の撮影スタイル、厳格と言われるほどこだわりぬいた構図の美しさなど、のちに世界から『小津調』と評価される映画の完成形として高いをうけました。

映画評論家の佐藤忠男は「世界に類のない小津の厳格で独創的な技法は「晩春」で完璧の域に達し、以後、一作ごとにさらに磨きが加えられていくことになる」と評している。

小津安二郎 - Wikipediaより一部抜粋

その後、自身のスタイルに更に磨きを掛けるべく、より綿密に構想を練りこまれるようになり『一年一作』の名監督への道を再び歩み始めました。

1951年に『麦秋』でブルーリボン賞を受賞。1953年(昭和28年)には後に自身の代表作と呼ばれる『東京物語』を公開します。

東京物語 ニューデジタルリマスター

やがて1953年(昭和28年)から本格的にテレビ放送が始まり、コンテンツの主役はテレビへと移っていきますが、安二郎はテレビ製作には関わる事無く、映画作りにまい進します。

安二郎の作品は海外でも高い評価を受け、1958年(昭和33年)には『東京物語』が英国サザーランド賞を受賞しました。

そして1962年(昭和37年)、晩年の傑作といわれる『秋刀魚の味』を公開。

これが安二郎の最後の作品となりました。

「秋刀魚の味」 小津安二郎生誕110年・ニューデジタルリマスター [Blu-ray]

公開の翌年の1963年12月に体調を崩し入院。

二度と製作現場へ戻る事無く、60歳で生涯を閉じました。

今も語りづかれる小津調の世界

さて、日本が誇る映画界の巨匠、小津安二郎の生涯を記しましたが、みなさん、いかがだったでしょうか?

映画評論家ではないので作品の評価は避けますが、淡々と進む日常の光景に、気づけば目を奪われていく作品が沢山あります。

激しいアクションも、当然の事ながら幻想的な世界を作りだすCGもありませんが、小津映画には私達が普段忘れている美しいものが克明に描かれています。

小津安二郎 大全集 DVD9枚組 BCP-027

是非、今後とも小津安二郎監督の作品が後世に残されていくよう、復刻活動などあれば、今後とも紹介をしていきます。

それでは、この辺で。